2017年10月15日日曜日

對木裕里インタビュー 第3回

對木裕里さんのインタビューも今回が最終回。
作品制作にまつわる考え方をお聞きしました。



―突然ですがじゃがいもの話を。對木さんのアトリエにはじゃがいもがありますし、作品の中にも登場します。院生の時に描いていた絵はじゃがいもの絵だともいいます。對木さんにとって「じゃがいも」に対する感覚は重要なものだと思いますがそれはどのようなものなのでしょう。



 大学生の時は「物質とイメージの振れ幅」を探っていたんですが、院に入って改めて自分の制作を考えてみたときに、イメージというものの存在が疑わしくなってきた。どうしてこれを選んだろうという事をもう1回考え直したときにちゃんと意味が分かる、説明できるイメージを作りたいと思っていたので物質とイメージの二本柱の1つがいきなりぶれてしまったんです。

 そこでイメージを抜いて「物質の振る舞い」について考えて、ものをどう置くか、どう存在させるかという事をしっかりと表明することが彫刻家の仕事なのかなと思ったんです。作ることも重要なんですどう置くか、ということも同じくらい重要だと。ただ、ものの置き方に集中して考えていると最終的にどう置くかということばっかり考えるので、どんどん手が重くなっていきました。



 けれどもあるとき、ジャガイモを見て、上下左右がないのでこれは困ったなと思ったんです。これは置けないし、正しい置き方なんてものはないし。それでわからないなと思ってアトリエにぶらさげていたら芽が出たんです。つまり、私が決めなくてもじゃがいも的に上と下が勝手に決まったと。自分が知覚している以上のことが起きているということはそこから気づきました。私が決めたり、知っていることより世の中沢山の事が起きていたり決まったりする。じゃがいもの芽がでるっていうのもまさにその中の1つで。ものに対して正しい置き方っていう答えがあるはずと思っていたので、少し心が軽くなりました、自我がはがれたような感じです。あまりに主観的に、何もかもを決めることが必要だと思い込んでいました。



 そこでさらに、では上下左右のわからない塊を自分が持っている状態って何だろうと思いました。私が立ってじゃがいもを持っていたら、私には上下左右があるけれどじゃがいもには上下左右がないので「じゃがいもが私を持っている」という事も、言える。じゃがいもによって、自分が全部決定するんじゃなく「もの」に転がされるという客観的な視点に気づくことができました。石などと違って置いたり持つことによって関係性が転換するのはじゃがいもが生きているからで、作品の中でもそういった場を転がす力を持ったものとして扱っています。



 私にとってじゃがいもは何かというと、トリッキーな存在。自分の感覚とか信じているもの、思い込んでいることとかが台無しになるアイテムだと思います。ジャガイモにはジャガイモの重力、私には私の重力をもって振る舞っていて、どんなものにもそれぞれの重力が存在していると思います。ほかの素材でも、粘土には粘土の重力があるという風に見ています。



-對木さん自身、生まれてきたかたちは何だと思いますか?モチーフはなに?と聞かれることも多いんではないかと思いますが



 何だろうってすごく思います!何でこんなことをするのかなと毎回思います。でも手触りだとか、量だとか、色だとかかたちみたいなものは自分の中で確実なものなんです。だからかたちの意味はわからないけれど、その存在を目の当たりにしたい。
 人体彫刻を想像してもらうと、生身の人間ではないし、パーツがデフォルメされていても私たちは人体のルールを共有できているので全体として人に見える。たまたま人ってものがのっかっているから見やすいだけで腕の太さがどうだとか、体がねじれているからこっちに開いているとか、全部方向があったり量があったりするんですね。
 私はそこだけを抽出して彫刻を作っているので、かたちだと考えるとわかりにくいのかもしれません。いろんなかたまりがくっついたり離れたりしていますが、何か共有できるイメージのルールがない。ただ、この形はこっちに開いている形とこっちに向かっているかたちですといったことについては説明できるんです。


-抽象的ですよね。抽象的だけどあまりそうは見えなくて具象に見えるのが不思議ですね

 抽象彫刻って石がゴローンと転がっているとかシンプルなイメージがあるんですがそれよりも要素は多い、なのにヒントにはなっていないから謎が深まるばかりなのかもしれません。これなんなのって聞かれますからね(笑)。でもわからないものって沢山出会うけれど、これなんですかって聞かない。これなんですかと聞いてしまえる隙のある作品であるなら、それはいい事だと思っています。



私もやっぱり得体の知れないものだって思います。私もわからないけど、なんとか言葉は探している。それを見ていいねって言ってくれている人は一緒に探してくれている人で、ありがたいとしかいいようがないです。作品に取っ手がついていたりするのは、見る人と分かち合いたいなと思って作っているからです。これが何かは分からないけど、もしも運ぶときはココ持つよね、という。
作家には何かイメージとかゴールがあってそこに一本道で向かっているっていう風に思っている方が多いけれども、私の制作は1本道じゃなくて次元がころころ変わったり、転がったりしながらつくっているのである面ではわからない事を共有しているし、ある面では私しか知らない事があるんです。



—對木さんが制作をしている理由、作品によって起こしたい事というのはなんでしょう



 人の感触とかこころとかに見えない力を起こしたいというか。形の意味がわからないからこそ存在が現実的に迫ってくるし、色や形や指の跡から真逆の力が見た人の中に浮かぶ。そういった見えない力を起こしたいし、自分自身も触れたいと思っています。
また、見てわからないけれども何か取っ手があったり、あ、ここにも点があったみたいなところがあると、それはその人だけのものでもありますが同じものを共有できる瞬間でもある。そういう空間を作りたいと思っています。
その作品を通して遠くという、その人の体の中だったり知らない感覚だったり、もしかしたら昔のこととかを思い出したりすることであったりする場所にいくための道具。
 
 私たちは全部自分で意識して決定していると思いがちですが体の中で感知している物事とか手触りとか原始的な能力ってあると思っています。原始的な能力を鍛え続けることは、これからの時代を生きていくうえで武器、力だと思います。だから作っています。


―美術史においてどのような場所にいるのか。また彫刻家としてどのようなものを制作したいということを意識しますか?


 意識せずに作る方が難しいと思いますが、だからと言ってそれに縛られたら新しいことはできないと思います。どこかでポーンと忘れてひたすら手を動かしてみることも大切かと。



 彫刻史も美術史も西洋の物がベースになっていますが日本の彫刻も絵画も美術史のメインストリームじゃないだけで、この国の風土や信仰の上で作られてきたものがあります。石や水や森を信仰する文化が。私の感覚というのはそっちから来たものだと思うんです。西洋の哲学書とかがあまりぴんと来なくって。
 仏教や東洋思想の、結果に向けて作っていないような感覚。1つ答えにむけてやっていくのではなく日々の積み重ねみたいなもので立ち上がる空気、みたいな感覚のほうが近いなと思います。それは美術史上で自分が何をすべきかということよりも、もともと備わっていた感覚、物事の存在意識だと思います。そういった感覚をもってつくっていけばその考え方は世界にもしっかり伝わると思います。


—これから作家としてどのように活動を進めていきたいと思いますか?
 
 まず、作り続けないといけませんね。その上で、これまでは自主企画展が多かったですが、ギャラリーの方や他のアーティストの方のように、自分の事をちょっと引いて見てくれる人と一緒に関わる機会が増えていけば、戦略を立てやすくなっていくと思います。自分一人では気づけない問題もあるので。
 これまではとにかく場数をこなすこと、自分の作品をつくること、自分の色を出していくということを目指してやっていましたが、これからは美術史の中で自分がどんな立ち位置にいてどういう意味のある作家かって言う事とかも含めて、より一層作家として自立したいです。



 ただ、そんなに不安がないんです。感覚的に選んだ事ってそう間違わないような気がします。理屈をこねて選んだ事ってわりと間違うんですよ。けれどなんかこっちだ!って思いついて進んだ事ってそう間違っていない。後で何とかできるはずだと思っています。



對木裕里さんは土・日・月在廊されています。
詳しいお話をお聞きしたい方、かたちを体感してみたい方、ぜひ10月18日(水)20:00〜の
「アートを語る会」にご参加ください。ご宿泊以外の方でもお聴きいただけます。