2015年11月27日金曜日

山本雄基インタビュー 第2回 2011年 —公募展大賞受賞、震災とアーティストとして−

先日から始まりました山本雄基さんインタビューの
第2回を掲載いたします。




―山本さんが大黒屋の公募展に応募した理由はなんでしょう

山本さんが大賞を受賞した第5回現代アート公募展展示風景

 大黒屋の公募展に応募した頃は作品制作に専念するため高校の先生を辞めた後に、
貯金でひたすら制作するという半年で、制作したものはできるだけコンペに出そうと
決めていました。3つか4つコンペに出したんですが、そのうちの1つが大黒屋
でした。応募することに決めた1番の理由は菅木志雄さん、小山登美夫さん、
天野太郎さんという審査員の方々ですね。アーティストとギャラリストと
キュレーター、しかもこの3名の並びは面白いなと。またさらに、なんで温泉で
公募展なんだろう!?と。それは大変ユニークに感じたことでした。

 また、それまでの入賞作品が見られたのでもちろんそれをチェックしたんですが、
漠然と近いものを感じたんです。僕はコンペに何度も落ちていたんですが、大黒屋は
シンプルな抽象で入っている人も多く、これは他のコンペよりも自分の狙える渋い
ラインの選考基準だなと。自分も今までコンペに落ちてきたのは円だけの抽象だし
コンペ向きではないのかもなという自覚がありました。
 その時の絵画のトレンドとしては具象ブームみたいなものがあって、見た目が派手な
作品も多かったんです。ピーター・ドイグさん(※1)とか、村瀬恭子さん(※2)の
影響を表面的に受けているような絵が流行っているように僕には思えて。
いろんなコンペでもそんな傾向寄りな気がしてたんですが、もしかしたら
大黒屋さんの審査基準ではいけるんじゃないかと。
  大賞を受賞した作品も、内容が渋いので画面はカラフルに、色をとにかくいっぱい
 使ってせめて目立とうと思いました。



―山本さんが大賞を取って個展を開催したのは2011年という、東日本大震災の直後の
 ことでした。アーティストも含めて全国規模で「何をするべきか」という変化の
 ムーブメントがありましたが、山本さんの作品は変化していないように見えます。
 現在のアーティストにとって3.11以降という時代性は無視できないと思いますが、
 山本さんは2011年にどういうことがありましたか?


2011年4月、震災後に開催された個展(六花亭/札幌)

 2011年は2010年に大黒屋の大賞をとって、4月に他の個展、10月に大黒屋の個展と
展示が続いたのでそもそもたくさん制作しなきゃいけない状況だったんです。
そんな中で地震が起きました。
 地震が起きた時はコールセンターのアルバイトをしていた時間でした。
札幌は震度3で被害もほぼなしでしたが、どうも長いし変な不気味な揺れだなと。
仕事で使うパソコンで震度情報を見たら震度7で、その後に津波のニュースが流れて。
これは大変な事になったと。仕事のシステムも地震の影響で止まってしまいその日は
帰宅することになり、アトリエに行くんですがテレビつけっぱなしでいる。
けれども翌月には個展があるので制作を止めるわけにもいかない。次の日も仕事が
休みになって、やはりアトリエにいたらこんどは原発の爆発で。唖然として思考が
追いつかない。しかも画面の中だから、不気味な現実感でした。
 でも落ち着かないながらも制作をしていると、ちょっと冷静になれるというか。
あんな非常事態でも自分の居場所なんですよね。
 次の日には仕事のシステムが回復して。少しすると被災地の方に対応する仕事も
発生してきて、直接電話で話すこともありました。そうすると本当に何か力に
なりたいという気持ちになって、間接的にではあるけれども人の役に立っている
この業務をしっかりやろうという気持ちになりました。震災の特別対応の夜間業務
みたいなこともひきうけたり。それは芸術活動とは別に、少しでも何かできればと
いう気持ちでした。


 地震の2週間後には大黒屋の第6回コンペ授賞式に招待されて、もちろん出席させて
いただきました。福島空港経由で伺ったので知り合い何人かには心配されましたが、
大丈夫だろうと。近い場所の状況を実感したかったし、こんな状況の中で審査員さん
達にもまた会えるチャンスは大事だと思って。実際空港から大黒屋さんまでの光景は、
新幹線が止まっていたりしたけど人々の生活があり、街が動いていた。それは
当たり前だし自分はただ通過したにすぎないけど、体感したことが大事でした。

 アトリエでの制作風景(2010年アトリエ取材時)


 一方で制作も止めず、個展が始まりました。大黒屋の初個展も控えていたので、
制作が止まることは無かったです。チャリティー展示の話に誘われることもあった
のですが、自分は駆け出しの1作家に過ぎないと思っていたので断ったりもして。
アルバイト及び少しの募金や救援物資を送ることが震災のためにもできることで、
制作は制作でそのまま黙々と続けることが自分のやるべきことだと思いました。
 全国の人を対応するコールセンターで働いていたので、なんとなく震災意識の
地域差も感じていました。震災が日本の怪我だと考えたら、日本全体が怪我をしている
わけじゃない。怪我をしていない地域の僕はいつも以上に普段のことをまじめに
生きるというのが筋だと決めたんです。


 また当時、いつも刺激をもらっている画家の友人がいまして。彼は福島出身
なのですが、とりわけ震災や原発のことを直接的にテーマにするわけではなかった。
テレビの津波とか瓦礫の映像をスタート地点にしながらも、あくまで抽象的な
ドローイングを描く。劇的に作風を変えるわけではなく真摯に制作をしていたんです
それで心を救われたというか、僕もしっかりと制作しようと。


 個展期間中、滞在しながら公開制作を行う


 実際、2011年の作品数は多いんです(※3)。2つの個展のせいもありますが、
何かこう悶々としながらも駆り立てられるように作品をつくったという、そういう
年になりました。
 作風への影響については、地震は自然のシステム、原発は人間の業につながる。
そういう要素は元々自作に無関係ではないので作風は大きくは変わりませんでした。
実は何枚か原発のことを意識して実験的に作ってみたりもしましたが、
記号的になりどうもうまくいかなかった。ただ、今のヴォイドの意識や複雑さは、
数年かけてそれが間接的に反映されてきた結果なのかもしれませんね。


―そんな中での大黒屋の初個展はいかがでしたか?


大黒屋での初個展 「山本雄基展」201110

 大黒屋での個展は震災から半年ちょっと経った秋でした。驚いたことに作品が
たくさん売れるという経験をしまして、とにかくびっくりしたんです。こんな年
だから自粛モードもあるし、まず売れるなんてことは考えずにやれるだけやろうと
思っていたので。大黒屋さんとお客様の信頼関係の大きさも感じました。

 そのときに、色に癒されるという意見が多かったんです。自分の絵にもそういう
役割があるんだということがこのタイミングなので余計に強くわかったんですね。
それに、うれしかったのは福島県の方にも絵を持っていただけることになった事。
震災後にもこの作品で制作を続けてきたことに対し、それで間違ってなかったと
言ってもらえたような気がして。本当にここでやってよかったなと思いました。

 公開制作を見るお客様と


 僕の作品は美術や絵画特有の領域に対する表現を軸にして考えています。
しかしそうではない軸もまた、自分の作品にもあるんだということがわかったと。
今でも人のためだけに描くという事は考えないでしょうが、ただ、自作が人の
ためにもなり得るんだな、という考えのきっかけになったのが震災後の
大黒屋の個展でした。


(※1)ピーター・ドイグ  1959-
イギリス出身、80年代に具象絵画によって閉塞したアートを打破しようとした「新しい具象」の動向を担った1人と言われる。
モチーフが日常性を持ちながらも、作家の具体的な体験ではない、鑑賞者にも既視感を抱かせる世界を描いて注目される。94年にはターナー賞を受賞を受賞。

(※2)村瀬恭子 1963
少女像や森の風景など具象でありつつ、大胆な筆致で幻想的な物語性を感じさせる絵画を発表。近年ではインスタレーションも発表している。
ギャラリーURLhttp://www.takaishiigallery.com/jp/archives/4669/

(※3)山本雄基 website参照


次回は明日、「作品の背景 曖昧性と現代日本の画家として−」を
掲載いたします。どうぞお楽しみに。