2015年10月17日土曜日

タナカヤスオインタビュー第3回「制作にかかわる感覚について」

これまで2回にわたって掲載いたしましたタナカヤスオさんの
インタビューも最終回です。

今回は制作の根幹に関わる「感覚」についてお話を伺いました。





-タナカさんのお話によく出てくる「距離感」についてお話しいただけますか

 自分のテーマにしているものの1つが「距離感」、というものです。
 距離感といってもいろいろな捉え方があると思いますけれど、どんどん迫ってくる
力強い作品もあればそうでない作品もあると思います。それは作家の人間性であるとか
そういうものが出てきていると思うんですが。
 ぼくの場合はまず僕と作品に対しての距離感というのがあります。
 よく絵画や美術の作品は自分の分身である、自分そのものなんだという捉え方を
しているアーティストもいると思うのですが、自分の場合はちょっと違います。
描いていく過程で自分からは離れていく存在。自分から出てきたものであるという
存在であることは変わりないんですけど、出来上がった時点で離れている。
自分からは独立しているんですね。

 描いているときの距離感が自分と近すぎるとイメージとかが出てきます。
人の顔みたいのが見えてきちゃったらスキージーとかを使って思い切って消して
しまったりします。そうするとイメージは消えるんです。


No.72間合いの一例」2014

 でも物質自体は消えてくれないんですね。1回塗ってしまったら物質の痕跡は
残るんです。消す、という行為の後に出てくる痕跡のようなものを拾いつつ自分との
距離感を考えて、その距離感に納得したときに、作品が出来上がるという感じです。
 僕と作品との距離は離れている。そしてまた、見る人と自分、見る人との作品、
そういう距離感も出てくると思います。見ている人にとっては、車に見えちゃったり
するし、風景なの、とか言われます。そういうつもりでぼくは一切描いていない
んですけれども、そういう他者がイメージをもつというのも面白いと思っていて。
関心はあります。そういった距離のとり方というか。
 なので、ぼくはそうやっているんだということをあまり押し付けたくないと思って
います。記号的に描いて、皆が同じものを見るのではなく、それぞれが別の見方をする。
そこで同調する必要はないですし、個の存在としてそれぞれに違う見方があってそれが
当たり前。協調することなく見ていってもそれはそれでいいと。

 自分もある意味自分の作品があって鑑賞者でいるというか、完成しているとぼくも
もう鑑賞者になっているというか、そういう距離感ですので。自分が「こう描いた」と
いう事実も、他の沢山ある捉え方の一つに過ぎないと、そんな感覚も実はあったり
します。

-クールですね、その感覚は都会的というか、現代の感覚と感じますが

 「他者」という、自分と自立した存在で距離をとるというのは聞きようによっては
ちょっとドライに聞こえてしまうかもしれないんですけれど、ドライではあっても
きちんとリアルだとは認識しているんです。
 イメージを形にしているんではなくて、実際生で触った感触に反応して体を使って
描いているので、そういった身体性のリアルさというのもやっぱりあると思います。
人間ですから100パーセント割り切れるわけじゃないです。でもぼくと一心同体みたいな
感じはない。理屈で言えばもちろん自分からでてきたものですが、感覚的には他者で
ありたいのかな。
 たとえばアクションペインティングみたいながんがん体を感じさせるものは好みでは
ないんです。自分の作品に関しては。人のではすごく素敵な作品もありますし興味も
ありますけれども。自分としては「自分自身」を感じさせるような、それこそ本当に
身体の表れみたいなものを直接叩き込むようなことをすると本当に距離が近すぎるんじゃ
ないでしょうか。
 ちょっと1つワンクッションを置いておいてもいいと思うんですね。

―描くときに道具を使う、1つ距離をとるとおっしゃっていましたが、
 関係はありますか

 言われて気づきましたけれどもそれは関係あるかもしれないですね。1つの筆が
ワンクッションある。やはりさっきもいいましたが、直接触れ合わなくてもいい
でしょう。
 人は人、あれはあれ、これはこれ、自分は自分。最近の人と呼ばれる感覚なんで
しょうか。まだ自分も若いですからね。私生活のなかでもそういうことはありますよ。
どちらかといえば団体行動は苦手ですし。得意か苦手かといったら苦手。中学校の頃とか
修学旅行とかで団体行動のできない子がいたでしょう、どちらかといえばそっちのほう
かなという感じでした。


―「リアル」ということばをよく使われますが、どういうことでしょう

 「リアル」なものー「触れることができるもの」がいいなと。

 触覚的な感触を多少は残したいのかもしれません。メディアアートもデジタルな絵も
見るだけなら割合とまんべんなく見ますし、見る分には好きです。ただ、自分がやること
を考えると完全にシステマチックにやるのは抵抗があるのだろうと思います。


 デジタルで画面作るのもいいですが、マウスクリックしてピッと画面に出るのと、
直接筆で塗ったときに画面に出るものは違いますから。デジタルで描くと、描いたときに
跳ね返ってこないんです。感触、反動という、ものに何かぶつかると、跳ね返ってくる
同じ力がない。そんな激しくやるわけじゃないですが、感触とか反動とかがないと、
やっていて味気ないのかな。手ごたえがないとでもいうんでしょうか。
 エスキース(下絵)の類もやりません。イメージは描かないんです。描いたところで
描けないんです。鉛筆で書くのと絵の具で描くのとではぜんぜん感触が違うし、絵の具が
のったときも絵の具で「何かを描く」のであれば、スケッチをしたほうがいいのだろう
けれども油絵の具を使わないとエスキースにすらならない。だけど油絵の具を使うのなら
はじめから描いちゃえばいいじゃないかと。エスキース自体なりたたないかもしれない
ですね。

―タナカさんの制作にもかかわるような、ふと意識に残るものというのはなんでしょう?

 ぼくの住んでいるところは都市と自然の中間のようなところで、よく朽ち果てたもの
があるんです。
 川沿いとかぼくはよく制作に迷うとぶらぶらと散歩をしているんですが、看板とかが
捨ててあるんです。それは、裏返っていたりして、錆があって。それが非常にきれいで
しばらく見入っちゃったりなんかして。 
 「作為性がないもの」、というものがあります。ただ、完全な自然界のものでもないと
いう。看板というのは、東京なり名古屋なりそれなりの町の中だからつくられますが、
本当の大都会じゃないから川にそんなものが捨てられている。それがある種作品のように
見えてしまって。
 ほかにも作為性なしに勝手にできあがるもの−たとえばダンボール、その上を歩き
回って作業していると跡がつくんですが、これは面白いなあと。模様をつくろうとして
踏むわけではなく、別の目的があるけれども、勝手にできあがってしまっているような。
つくろう、つくろうと思って作ったものとは違うものが何かあるような気がして。
ちょっとこう見入っちゃいます。

 もちろん自然は嫌いじゃないですよ。自然が嫌いな人ってほとんどいないんじゃないで
すか。でも僕は朽ちた看板だとかという、そのあいのこみたいなものがいいと思います。
看板自体というのは作られたもので自然の中からうまれるものではないですよね。
ですが捨てられてさびて朽ち果てて、看板としての機能はもうないわけです。

タナカさんが写真に収めた朽ちた看板

 なかなか描けないですよね。絵にしても。機能は失われているにもかかわらず、
いや、その機能がなくなったからこそ別の何かが機能している。それは機能とはいわない
のかもしれないですけれど。もともともは人間がつくったものだけど、自然の力が
加わっているそういう中間的なところのほうが好きかな。

 たとえば板室のような大自然の中から出てきた作品とはちがうでしょうね。
菅木志雄さんは山の中で育ったという風に聞いていますけれども、ぼくはそういうもの
とは違うと思います。幼少の頃のどういう中で育ってきたというのがどこかででて
くるんじゃないでしょうか。大都会にもまれてというわけではないですけど、
山の中でもない。そんなところでしょうか。

―好きなアーティストはいらっしゃいますか?

 ファッションでいうとカガリユウスケ(※1)というカバンを製作している方が
好きで、持っています。展示にも行きますね。あと、ファインアートの作家では江川純太
さん(※2)。江川さんは少し年上の人ですが、3、4年前にワンダーウォールで賞を
取っていて、ビッと来て。都庁で個展をやるのか、それはぜひ本人にもできれば話を
したいなと思い今は個展の案内とかも見てもらっています。あとはアクリル画の
五木田智央(※3)さんも好きです。ちょっと似てるといわれたこともあります。
絵を描いているときは意識はしないんですけれども。

―今後のアーティストとしての展望を聞かせてください

 いまの段階でトップアーティスト、たとえばダミアン・ハーストや日本だと村上隆の
やっていることを完全に把握できるわけではないですし、欧米のコンテンポラリーアート
とかと自分のやっていることとの関連性はあまり見つけ出せないです。確かにそういう
人たちの本見るのは好きだし勉強はします。自分がそこを目指すのかというとあまり
リアルな話じゃないです。作品性ということもありますけど、世界のアートシーンに
出て、オークションですごい値段がついたり、というのはまだそういう場所に行って
いないからかもしれないですけど。リアルじゃないというか。


 目の前のことをこつこつやっていく感じです。
 いきなり自分は世界のトップアーティストになりますというのは口では誰でも言えます
けど、それって今リアルにこのことをやっていますということを捉えられないじゃない
ですか。それよりも身近なところで、東京都内の美術館で個展とまでいられなくとも
若手のグループ展とかそういったもので展示するとか、まだちょっとがんばらなければ
いけないですけど、よりリアルです。

―芸術祭のように社会との関係性の上で制作するという事は?

 僕はもうちょっと個人的なのかな、と思います。芸術祭に出ているような関係性を
つくっていく作品もすばらしいですけれども、僕はああいうのを見ていると観客で
参加したいなと思ってしまいます。自分があのようなものをやる、というのはあまり。
やり方が違うというか。
 絵画ではないですよね。絵画でもぼくとはまったく論理が違ってやっているというか。
ぼくの絵は、「もの」という感じです。芸術祭は起こり得るできごとと与える影響、
出来事を作品にしているタイプが多いと思うんですが、ぼくの絵は、もうちょっと職人的
かと思います。
 アートの中で職人という言葉はいい意味にはつかわれないですよね、どちらかというと
ネガティブな。「これただの職人仕事でしょ?」のように。ぼくはもうちょっと
ポジティブに使ってもいいと思います。技術的なもの。うまいということばもアートでは
いい意味に使われませんが、大事なことじゃないですか。
うまいことも、職人的なことも。 

 また、見る分にはいいですけれども、やる分にはできないというものがあります。
 今年31になりますがほんとうに芯から望んでいるもの以外はできなくなりました。
学生時代やファッションをやっているときは「面白そうだしこういうものも大事かも
しれない」というものは手を出したり、自分の本筋とは違うけどいい練習になるんじゃ
ないかというものはやったりしました。
 ただ、今は本当に望んでいるもの意外は自分でわかるんですよね、ニセモノだって。
これをやったらもっと向いている人がいるわけだし、自分がやっても6割7割の作品に
しかならない。

 心から望んでいること、心からいいと思えるかどうかーそれが作品の方向性を決めて
いるじゃないでしょうか。少なくとも、あれこれ下手に手を出すよりも1つ、もともとの
性格がそうなのかもしれませんが。同じ事をずっとやって積み上げていくというタイプです。
ぼくは。


※1 カガリユウスケ
「カバン=壁」「革=動物の皮膚」ととらえて『壁を持ち歩く』をテーマに、
質感を重視したカバンブランド。

※2 江川純太
1978年生まれ。油絵の具を用い、鮮やかな色彩と多様な色面により個人の記憶や
存在をほのめかすような絵画を制作。第7回大黒屋現代アート公募展入賞者でもある。

※3 五木田智央
1969年東京生まれ。特徴ある作風によりサブカルチャーに大きな影響を与え、
カルト的な人気も集めるイラストレーター。ニューヨークなど海外でも注目される。
2014年に川村祈念美術館で初の美術館における個展を開催





タナカヤスオさん、お話をありがとうございました。

現在開催中のタナカヤスオ展は10月30日まで開催しております。
また、明日18日20:00よりアーティストトークが行われます。
直接お話を聞いてみたいという方、ぜひお運びくださいませ。